本書第1章の方程式:「予想貯金額」と「予想投資収益額」を比べる
ニック・マジューリ『JUST KEEP BUYING』は、冒頭で「貯金を重視すべきか、投資を重視すべきか」に明快な答えを出します。著者自身の表現で、
- 予想貯金額:今後1年間に無理なく貯金できそうな金額
- 予想投資収益額:今後1年間に手元の投資資産から得られそうな収益
この2つを比べ、大きい方に自分の関心と時間を集中させよ、という方程式です。著者は少し思い切った言い方として、「貯金は貧しい(投資するお金がない)人のためのもの、投資は豊かな(投資するお金がある)人のためのもの」とまで書いています。
この方程式は家計の世界で非常に強い武器ですが、中小企業経営者には文字通りに適用しにくい。会社員と違って、経営者には「事業への再投資」というもう1本の軸があるからです。本書はこの軸を明示的には扱っていません。そしてもうひとつ、本書が暗黙の前提にしている「何のために積むのか」という経営者の内的動機が空白のままだと、方程式は機能しません。
「収入の20%を貯金しよう」というルールを本書が否定する理由
本書の第2章で著者が強く否定しているのが、「収入の20%を貯金しよう」のような万人向けの固定ルールです。連邦準備制度理事会と全米経済研究所の分析を引用して、貯蓄率は所得水準で極端に変わると示します。下位20%の所得者は収入の約1%しか貯金しない、上位1%の所得者は収入の51%を貯金している、というように差が非常に大きい。
著者の結論は、**「できる範囲で貯金する」「自分が思っているほど貯金する必要はない」**。環境に応じて消化器官の大きさを変える魚(ドリーバーデン・チャー)の「表現型可塑性」に喩えています。生涯を通じて収入は一定ではないのだから、収入が一定であることを前提にした貯金の黄金律を絶対視すべきではない、という立場です。
中小企業経営者に当てはめるなら、この主張は強く支持できます。経営者の収入は良くも悪くも事業の波を受けます。固定ルールで貯金率を決めるより、その年の事業のキャッシュ余力に応じて、貯金・投資・事業再投資の3つの配分を動かす発想の方が現実に噛み合います。
経営者に必要な「第3の変数」:事業への再投資
本書の方程式を経営者用に拡張すると、比較する項目は次の3つになります。
- 予想貯金額(個人預貯金の積み増し)
- 予想投資収益額(個人投資資産からの期待収益)
- 予想事業再投資収益額(会社の利益を再投資した場合、翌期以降に生まれる増分利益)
本書の方程式が「個人として1で貯めるか2で増やすか」の二項対立なら、経営者は「会社として3に回すか、個人の1/2に回すか」という上位の配分問題を先に解く必要があります。3の予想値が高い段階では、会社の内部留保を厚くして再投資に回すほうが、個人の貯金率を少し下げてでも合理的になります。
ここで大事なのは、3の期待収益を過信しないこと。事業再投資は自分が経営する会社への「投資」であり、上場株のインデックスと違って分散が効きません。連帯保証の比重が重い経営者ほど、3への過度な集中は本書が別章で論じる「両賭け戦略」の考え方からも外れます。
経営者の方程式を動かすには、先に内的動機が要る
本書は第1章で、「自分が思っているほど貯金する必要はない」という考え方を、年金受給者の資産推移データを引いて示しています。米国で死亡時に資産を減らしていた年金受給者はわずか14%で、大半は資産を取り崩していない。必要以上の不安から貯めすぎている層が多い、という結論です。
この議論の背後にあるのは、「何のためにお金を貯めるのか」という問いです。本書自体は行動経済学の分析でこの問いを外側から扱いますが、中小企業経営者が日次で直面するのは、もっと手触りのある問い。自分は何のために事業を続け、何のためにお金を積むのか。この問いの答えが曖昧だと、3変数の方程式を何度解いても配分は定まりません。数字の議論に入る前に、言葉の議論が要ります。
事例:成長期に方程式の変数を「固定」した人材派遣会社
2022年頃から定期的に関わっている人材派遣+イベント事業の経営者がいます。相談時は33歳、そこから2年間で従業員数が3倍近くに増える急成長期に入りました。
この社長の最初の相談は組織論でした。「スキルのある人が集まってくれるが、愛社精神が薄い気がする」。僕が返したのは、お金の話ではなく視点の転換でした。「辞めないことを当たり前と見るか、社長の人徳と取り組みの成果と見るかで、経営判断は180度変わる」。この思い込みが外れてから、社長は前に進めるようになり、2年で組織が3倍近くに成長しました。
この経営者と資産形成の話をするようになったのは、事業が拡大して利益が見え始めてからです。成長期の社長に合っていたのは、本書のいう「機械的に積み立てる」方針を意思に頼らない形で仕組み化することでした。役員報酬を決めたら積立比率を固定し、上振れた月の利益は会社の内部留保に回す。具体金額は公開しませんが、「本業の判断エネルギーを資産形成の迷いで消費しない」ことがこの経営者にとって最大の効用でした。本書の方程式の議論は、こうした意思決定の節約を前提に動きます。
事例:個人資産の議論に入る前に「土台」を直した福祉施設
もうひとつ、2024年秋から継続支援に入っている福祉施設の37歳・2代目経営者のケースです。コロナ前後で意欲的に事業拡大に挑戦した後、撤退した事業もあり、返済タイミングがバラバラの借入を抱えていました。設備借入の期間が短く返済額が減価償却費を上回る状態で、手元キャッシュフローが慢性的に圧迫されていた。
この段階で本書の方程式を直接適用して「貯金 vs 投資」を議論しても、そもそも3変数のうち1・2に回す余力が構造的にありません。僕が同席した銀行交渉で、国の借り換え一本化制度を使って1億弱を15年で引き直しました。金利は若干上がりましたが、返済ペースが減価償却費と同等水準まで落ち、月次キャッシュフローが60万円ほど改善しました。
この経営者で効いたのは、本書の方程式の前段にある「会社のキャッシュ構造を整える」という土台作業です。方程式が機能するのは、事業がキャッシュを吐き出す側に回ってからです。吸い取る側にある段階で貯金率や投資収益率を論じても、数字が意思決定の土台を作る向きに動きません。
もし「役員報酬を上げて個人投資を増やしたい」という相談が来たら
仮に年商2億規模・従業員15名の経営者から「会社は黒字が続いているので、役員報酬を上げて個人側の投資を加速したい」と相談が来た場合、僕が確認するのは金額の妥当性です。
目安のひとつとして、役員報酬は従業員の平均賃金のおおむね3倍を上限の参考にしています。経営者が個人でリスクを取り、経営判断と従業員の雇用を背負っている対価として、このくらいの差は会社の健全性の観点から納得感が出ます。3倍を大きく超えて設定すると、従業員から見た会社の求心力が落ち、組織運営にしわ寄せが出ます。3倍前後にいるなら、役員報酬を動かすより新NISA等の税制活用で積立効率を上げる方向を優先します。3倍未満なら、会社の利益と相談しながら上げる余地があります。
この役員報酬の設計が決まってから、本書が示す「予想貯金額 vs 予想投資収益額」の方程式が、経営者個人の家計の中で意味を持ち始めます。
本書を経営者が使うときの3つの鉄則
- 「収入の20%を貯金」のような固定ルールは使わない(本書自身が否定している)
- 予想貯金額/予想投資収益額/予想事業再投資収益額の3変数で比較する(本書の方程式を経営者用に拡張)
- 方程式を動かす前に、何のために積むのかを言語化する(本書が暗黙に前提とする内的動機)
明日の一手:30分、3変数と「積む理由」を紙に書く
明日、30分だけ時間を取って、次を紙に書き出してください。
- 今後1年に無理なく貯金できる金額の見積り(予想貯金額)
- 現在の個人投資資産から今後1年に期待できる収益(予想投資収益額)
- 会社の利益を今再投資した場合、翌期以降に期待できる増分利益(予想事業再投資収益額)
- 1・2・3の合計でいくつのとき・何を成し遂げていたいか(積む理由)
1〜3を並べると、自分の時間と関心をどこに寄せるべきかが本書の方程式どおりに見えてきます。4が空白だと、3変数の大小を比べても打ち手が定まりません。4から先に書く方が、結果として1〜3の精度も上がります。
この記事の根拠と執筆背景
主要な参考書籍
本記事はニック・マジューリ 著『JUST KEEP BUYING』(児島修 訳)を主要な参考書籍としています。特に第1章「どこから始めるべきか?」の予想貯金額 vs 予想投資収益額の方程式、第2章「どのくらい貯金すればいいのか?」の「できる範囲で貯金する」「自分が思っているほど貯金する必要はない」という結論、第3章の節約と収入アップの比較論を参照しました。記事内の「第3の変数(事業再投資)」は本書原典にない筆者の拡張で、中小企業経営者向けの実務翻訳として提示しています。
引用した支援事例について
- 事例①: 人材派遣+イベント事業(相談時33歳経営者・2022年頃〜定期コミュニケーション継続)。視点転換と成長期の意思決定支援。2年で従業員が3倍近くに増加。社名・個人名は匿名化。具体金額は公開していません。
- 事例②: 福祉施設(37歳・2代目経営者・2024年秋から継続支援)。国の借り換え一本化制度で1億弱・15年の引き直しを実施し、月次キャッシュフローを約60万円改善した実例。社名・個人名は匿名化。
執筆日・最終更新日
執筆: 2026-04-21 / 最終更新: 2026-04-21(原典PDFベース再リライト)
著者について
枝元 宏隆(えだもん)。中小企業診断士、複数法人経営者。九州中心に経営改善・資金繰り改善・事業承継の伴走支援を実施。

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